一年で一番長い日 75、76無意識に、思い出さないようにしていたこと。考えないようにしていたこと。『ママがしんじゃったときのパパとおなじかお、おじさんしてるもん』 ──弟が死んだ時のこと。 瞼にぐっと力を入れ、俺はしがみついてくる子供の背中をそっと撫でた。 俺が駆けつけた時、弟はすでに身を拭われて霊安室に横たわっていた。血の気の失せた青白い顔。鏡を見るように同じ顔だったのに、その時、俺たちは決定的に違うものになったと感じた。 俺たちは隔てられたのだ。生と死に。 俺を案内してくれた刑事は、複雑そうな顔をしていた。そっくりな男が二人。一人は死人、もう一人が死んだ方を見下ろしている。線香の煙が漂う中、白い菊の花が幽かに香っていた。 「お兄さんなんですね、彼の」 ぽつり、と刑事が言った。 「こんなにそっくりだとは知りませんでした」 「一卵性だから・・・」 俺はそんなふうに答えたと思う。ただぼんやりと弟の顔を見ていた。 「発見された時はすでに手遅れで・・・」 刑事は俺の目を見ずに言う。 「心臓に一撃だそうです。失血によるショック死に近いということで、その・・・」 「苦しまずには済んだんですね」 弟は眠っているようだった。頬を触ってみる。冷たかった。それが、とても悔しかったのを覚えている。 「──・・・」 弟の名を呟く。答えはない。むき出しの肩を抱き、頬を寄せる。この冷たい身体に俺の体温が移ればいいのにと力を籠める。全部移ればいい。なのに弟は冷たいままで、反対に、昨夜突如俺を襲った胸の痛みが消えていく。弟の身体に吸い込まれるように。 「これはお前の痛みだったのか・・・」 俺は呟いた。 「弟は、いつ・・・?」 見ないふりをしてくれている刑事に訊ねる。 「昨夜、午前零時過ぎのことです。周囲は血の海で・・・ひと目でもう命が無いとわかるくらいだったそうです」 心臓から温かい血を流しながら、弟は最期に何を思ったのだろう。離れた場所で、兄が同じように臓を押さえて苦鳴を漏らしたことを、知っていただろうか。 生まれてこれが初めてだったのだ、弟と痛みを共有したのは。 血は、命だ。それが流れ出し、滴り落ちる。血まみれの女。 死んだ女。死んだ弟。 思い出さないように考えないようにしていた。弟の死に際。女の死体だと思ったものを見て、本当は一番にそれを考えていた。 だから、怖かったのだ。もう取り戻せない。一度飛び去った命は戻らないのだ。 俺はぎゅっと子供の身体を抱きしめた。小さな身体で、まるで俺を守ってくれようとしているかのようなその姿が、愛しかった。 ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ 「夏樹くん、いい子だね」 俺は温かい子供の身体をそっと離し、その頭を撫でた。陶器のように滑らかな頬を、涙がいっぱい伝っている。 「おじさんの代わりに泣いてくれたんだね」 俺の問いかけに、濡れた目をゆっくりと瞬く。またぽろりと雫がこぼれた。 「ありがとう。おじさん、もう大丈夫だから」 ちょうど智晴が土産にくれたきれいなハンカチを持っていたから、それで夏樹の涙をふいてやった。いっぱいに開かれた子供の瞳に、俺の泣き笑いのような顔が映っている。 「これ見てごらん。小鳥さんがいっぱいいるだろう。チュンチュンって鳴いてるよ。次は小鳥さんが夏樹くんの代わりに鳴いてくれるよ。それから楽しく遊ぶんだ」 俺は絵柄がよく見えるようにハンカチを広げて見せ、それから素早くうさぎに折ってみせた。 「ほら、小鳥さんのハンカチうさぎ。夏樹くんと遊びたいって」 俺は子供の目を見つめてにっこりと微笑み、その小さなてのひらにハンカチうさぎを乗せてやった。 夏樹の頬に笑みが浮かぶのを見ながら、ののかにもよくせがまれて折ってやったなぁ、と少しだけ切なくなった。 「小鳥うさぎさん、パパにも見せてあげようか? ほら」 俺はそっと夏樹の背を寄せ、その父親のほうに向けた。すると、夏樹こそが小鳥のようにぱたぱたと駆けてゆき、芙蓉の膝に抱きついた。 ふと息をつき、蹴り倒した椅子を元に戻していると、もう一度芙蓉が言うのが聞こえた。 「・・・ごめんなさい」 「芙蓉くんは」 ゆっくりと座りながら、俺は言った。 「泣けなかったんだな、奥さんを亡くした時」 芙蓉は目を伏せた。きれいにマスカラの施された睫毛が揺れる。 「泣かないで、って言われたから。彼女に。・・・お化粧が剥げてブスになるから、笑っててね、って」 「涙ってさ、」 俺は続ける。 夏樹は芙蓉のスカートの膝に乗り、甘えるように抱きついている。てのひらに乗せたハンカチうさぎを、小さな指先で撫でては何か話しかけている姿が可愛い。 「引っ込めたつもりでいても、どんどん溜まっていくんだ、どこか見えないところに。だから本当は泣いて流してしまった方がいいんだろうけど、泣けない時って泣けないね。どうやって泣いていいのか分からなくなる。弟が死んだ時・・・」 芙蓉と葵が、ハッとしたように俺を見た。 「俺も泣けなかったよ。俺たちは母親の胎にいる時から一緒の兄弟だった。一卵性だから元は同じものだった。それなのに・・・」 俺は一瞬声を詰まらせたが、何とか続けた。 「生き死には別だ。別々の人間なんだから当たり前なんだけど、多分、こころが納得出来なかったんだと思う」 次のページ 前のページ ジャンル別一覧
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